乱反射

貫井徳郎の『乱反射』を読む。
多分世間では評価されているのだろうけど、私は全然面白くもなかったし、感銘も受けなかった。逆に、苛立たしかった。
なぜなら、おそらく本書の大きなテーマであると思われる「些細なマナー違反、エゴの表出、無関心、自分勝手が大きな悲劇を生むことを自覚せよ」ということは、私にとって既に自明であり、常日頃苛立たしく考えていることだったからだ。
今更何言ってんだよ。そんなのこんなとこで書いても、こういうマナー違反やってる奴らは読まないよ。
…と思っていたのだが、もしかしてこういう本を読む人々のうちにも、結構こういうことやっている輩は多いのか? とネットの感想を見ていてぞっとした。
でも本当に苛立たしかったのは、これが非常にたちの悪いファンタジーであることだ。
この本は、社会派のように見える。でも、肝心のところがファンタジーだ。それを読者に理解させないで、社会派のふりをして、いかにも本当にありそうなように、社会の有様を描き出しているかのように、書いている。これが現実ですよと言ってほら話をするのは、たちが悪い。
何がファンタジーなのかというと、真相が一人の働きによって解明されていくこともまあそうだが、「犯人」たちの心のことだ。本当は、人間はもっと醜く、自分勝手ではないのか?
「犯人」の殆どは、主人公に真相を突きつけられて、心の中では罪を感じたり、すまないと謝ったりしている。それを言葉に出せないのは、こんな世の中で下手に責任を認めたりしたら、どんな賠償を求められるかわからないからだ。防衛反応で自分は悪くないという自分勝手な論理を作り出したりはするが、その以前に一瞬確かに心は罪を感じている。これは私にとって、この本を素直に読んでいたとしたら非常に救いとなることであった。
でもこれはリアルではない。現実にこのようなことが起きたとして、果たして犯人たちがこのように素直に罪の意識を感じるだろうか? 私は非常に疑わしいと思う。一瞬も罪を感じることなく、本当に心の底から自分は悪くないと思い、何の疑問も持たずに逆ギレするのが大半じゃないのか?
そこを救いのあるように書いているのがファンタジーであり、そしてそれをファンタジーであると明らかにしないことで、読者にそれを疑似現実だと、つまり、これは小説の中の出来事だけれど、これは社会を糾弾すべく書かれた社会派なのだから、現実にもこのような救いがあると信じさせることにつながる。
だから非常にたちが悪いと思うのだ。

これは、社会派じゃない。
社会派の皮をかぶった、ファンタジーだ。

そう言えば、ある書評に曰く、「真相の究明こそが慰謝になると実感した」。…は? ていうか、ホントに起きながらこの本読んでんの? 真相の究明の過程で、いつどこでどのようにこの主人公が慰謝されたよ? 真相を究明すればするほど、追い詰められていったじゃんよ? ただ真相を究明したいという気持ちが行動の原動力になっただけで、それはとても慰謝とは言えないじゃん。もっかい目を覚まして読んできた方がいいよ。