神様ごめんなさい。どうか許してください。

牛乳を買いに行くため、近所のスーパーに行きました。うろちょろしていると、耳を疑う発言が。
「まぐろってお肉じゃないんですか」「まぐろはね、お魚よ」
まぐろの試食販売をやっているおばちゃんを囲む、目の回りがマスカラで真っ黒になっている小学生らしい女の子四人組。おばちゃんの受け答えからすると、どうも本気のご発言だった模様。
ほんと、すいませんすいません、申し訳ない、ごめんなさい、どうか許してください、という気持ちで胸がいっぱいになりました。

私はこのいわゆる「小市民」シリーズが嫌いである。古典部シリーズも嫌いだが、これは本当に小鳩死ねばいいのに!と思うくらい、心の底から憎んでいる。
太田光がどこかのテレビ番組で言っていたのだが、昔「死ねばいいのに」という罵りを聞いて戦慄したそうだ。「殺してやる」という積極的な悪意ではなく、自分は手を下すまでもないけど、世界にいらないから死んでくれたらいい、という、悪意のように見える絶対的な無関心。
というわけでもなくて、むしろ積極的な殺意に近いのだが、相手は小説の登場人物なので、死ねばいいのにと祈るしかないというだけ。
本当に、自分はどうかしちゃってるんじゃないか、と思うくらい、小鳩のことが嫌いで嫌いで、死んでほしくて仕方がない。この憎しみはどこからくるのだろう、と自問したくなるほど、その感情は激烈で自分でもどうしようもない。

とりあえず内容としては、くず。解決は完全に予測の範囲内。というか、殆どミステリのお約束、定石、当然の論理的帰結。このあまりに当然すぎて謎でも何でもない解決で本当に上下二巻も引っ張っていいのか、と心配していたネタそのもの。はみ出たところがこれっぽっちもないから逆にびっくりしたくらい。まさかこれが「意外な解決」ってオチか、おい?
二視点にしたのが完全に裏目に出てると思うけど、本当に本当にこの構成でよかったのかと作者の頭の構造を本気で心配してしまうほど。

仕方がないので、なぜ自分がこんなにも小鳩を憎むのか、考えてみた。
なぜなら、こいつは小市民を徹底的に馬鹿にしきっているからだ。
自分を優性種だと思いこんで、「普通」の人々を下に見ている。「小市民になりたい」とか戯れ言を言っても、それが嘘であることを、この巻で本人自身が認めている。
推理をするのが楽しいことや、それを他の人と話しても理解してもらえなくて話がはずまず異端の目で見られることも、それはよくわかっている。本当だろう。しかし、物事に気づいて推理できるのは、そんなに偉いことなのか? ただ、そういう頭の使い方に慣れているだけじゃないのか。それに興味を持っているからたまたまそういう回路を日頃から走らせているけれど、おまえが言う「小市民」たちに、義務としてそういう思考回路を植え付けたとしたら、おまえと同じように、あるいはおまえよりもずっとうまく、そういう考え方ができるようになるかもしれないとは思わないのか。
小市民は、そういう人なだけであって、だから下だとは限らない。人の恋愛にしか興味のない情報通の女からもらった情報を、まさかおまえは下のものの労働の成果を搾取する領主の気持ちで受け取ったんじゃないだろうな。
まあ、つまり、根拠のない自信に裏打ちされた尊大さが許せないわけで、つまり、
「おまえ何様のつもりだ?」
という一語につきるのだけれども。
それがどうしてそんなに私の心を苛立たせるのかというと、基本的に私は自分中心で他人を尊重しない人間が嫌いで、なぜそんな人間が嫌いなのかというと…はて、なぜなんでしょうね。
しかも、馬鹿にしきっていながら、小市民になりたいとか嘘をつくことが許せないのだ。そう言うことで、小市民をさらに馬鹿にしている。
ラストで、小鳩が自分は小市民とは話が合わないとか小市民にはなれないとか言い出したときからやっと、いらいらせずに普通に読むことができるようになった。そう、本当のことを言えばいい。偉いつもりで、小市民を馬鹿にして踏みにじる権利など、おまえにはない。小市民の皮をかぶるとうそぶき、小市民を馬鹿にしているよりも、小市民とは別の生き物として、小市民とは別にひっそりと生きろ。
たとえマグロを肉(魚/肉の分類でいう肉の意)だと思っていたとしても、だから彼女を下に見ていいということにはならない。行き届いていない教育を嘆け。わがことのように衝撃をうけろ。
神に許しを請え!