日常の謎

毎日キャベツの炒め物やほうれん草のおひたしでは飽きるので、目新しい野菜を見つけたら購入するようにしている。
京菜」という名前がつけて売られていた野菜。

一束58円也。

しかし巣に戻って料理法を検索してみると、「京菜=水菜」と書いてある。
これはあきらかに水菜ではない。
育ちすぎたとも思えない異なりようである。

・葉の切れ込みがない
・茎が細くない
・なんか白っぽい

野菜図鑑を一生懸命検索する。
どうやら「山東菜」というものである可能性が高そうだ。山東菜は白菜の仲間で、結球しない品種であるらしい。なるほど
・茎と葉が下の方では一体化している
・葉っぱのふちがやや縮れている
など、白菜っぽい感じだ。
味はあくが強い白菜、といった感じらしいので、出汁で煮てみる予定。

あと黒皮かぼちゃも買ってみたのだが、煮てみたらあまり甘くなくてがっかり。むしろズッキーニっぽい。
いつも西洋南瓜は圧力鍋で煮てそのまま食べて十分甘かったので、それを踏襲して煮てみたのだが、これは何らかの味付けが必要なようだ。
まだ後には赤皮かぼちゃとモロッコいんげんが控えている。
赤皮かぼちゃなんか、ポタージュのレシピばかりひっかかってきて、ミキサーを持っていないうちとしては困っている。

そして今はだれも

そして今はだれも

うーん。気づかないうちにいろいろ出していたんだなあ。
で、加納朋子と同じ道を辿っている。最近では大崎梢と。
女性の日常の謎もの作家は同じ傾向にある気がする。若竹のようにミステリとしての独自性を発見し、クオリティを保ち続けるか、加納のようにミステリを離れて物語を書くか、どちらかにしてもらわないと世間一般に日常の謎がこういう分野なのだと思われてしまう(何様?)。
初野を見習ってくれ!

賢者の贈り物

賢者の贈り物

も、やはり石持的ファンタジー世界にはまりこんじゃっている。
論理が主役になれる場所は、現実の日常ではあまりない。だからそのための舞台を準備しなくてはならない。それが殺人という非日常、犯人にされそうという危機的状況、恋の盲目、それが解けないと何か大変な状況がおきる、という物語の必然なのだが、石持はそれを用意することがない。あたかも論理が日常的に主役を張っている世界が存在するかのように、主人公たちはどんなささいな行動でもすべて論理を紡ぎ推理し看破し行動する。その世界がファンタジーであることに、作者自身は気づいていないのだろうか。
ミステリは確かにマジックのかわりにロジックが支配するファンタジーである。
しかし、ファンタジーの世界設定は、物語のはじめに語られるか、物語中に徐々に示されるべきものである。ミステリの世界観は、特に但し書きのない限り、通常社会と同じものと前提されているから、ファンタジーのように物語中の風景、人物の描写から世界観を自然に明らかにしていくのは難しい。巧妙な叙述トリックでない限り、それはアンフェアですらある。