なみかんたい りんり

初野晴はいい!

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古典部シリーズに似ているとかいうやつがいるけど、古典部なんかの数段上を行く。というか、月とすっぽん。
ミステリは論理を紡ぐもの。
死体なんて目の前に転がらない我々が生きている世界の中でも、ミステリは生きている。論理は紡がれる。それは、人の心を読み解くための論理。
誰かを殺せば問題が解決するなんて、そんな楽なことはない。我々が生きている世界は、もっと複雑でささやかで、面倒くさくて。でもそれが本当だ。
起こってしまった些細な過ち、届かない思い、行き違ってしまった言葉。我々は日常の中で発生するそれらの小さなちいさな事件たちを、拾い集めて一所懸命修復し、不器用な縫い目でつなぎ合わせて、つぎはぎだらけの世界を織り上げていく。それが、今日も続く終わらない日常。
これこそが、我々の世界を、生きるための論理。
刮目せよ。これが、ミステリだ!


そういえば、ずっと敬遠していた『新本格もどき』を読んだのだが、やっぱり中身はどうでもよかった(本当に、ストーリーやトリックを今綺麗さっぱり忘れてしまってどきどきしている)が、中で日常の謎崇拝者についての議論があったことを思い出した。日常の謎を殺人が起きるものより高位に置いて、インテリぶっているとか通のつもりだとかいう話だったと思うが…。確かにそうなのかもしれないな。
だってしょうがないじゃん。センセーションに惹かれるのではなくて、日常の謎をミステリとして解読できるのは、センセーションを重視する人間よりも多分に分析的な人間(意味がわからなければ理屈っぽいと読んでくれ)であるという説明は自然だからだ。つまり通ぶって小難しそうな理屈をよくわかりもしないのに振りかざして「日常の謎もの」を崇拝しているのではなく、小難しく考えるのが好きだから小難しそうな理屈をこねくりまわして「日常の謎もの」を分析し、愛してるんだもの。インテリっぽくて当然。
しかも、日常の謎を好きな人間は、決して普通の殺人事件などのセンセーションミステリを嫌いなわけじゃなくて、それはそれでもちろん大好きだけど、日常の謎も好きなんだよ、という話だ。逆に、センセーションミステリは好きだけど日常の謎は好きじゃない、という人はそれなりの数いるだろう。非難がましく口に出す前に、どちらが寛容か、あるいは視野が広いか、考えてから言ってほしいな。別に日常の謎の方が上とも思ってないし。書くのがより大変だろうなとは思うけど。
新本格もどき』では、概して本編よりもミステリ談義のほうが面白かったことは覚えている。なんのつもりで書いたか知らないけど、あれがなかったら私はこの本の内容を片言たりとも頭に残せなかったよ。

桜庭一樹のインタビューを読んだ。
書くことは祈りであると。
自分が密かに思っていたことと同じ言葉が、別の人間の口から出ると、どうしてこんなに切なくなるのだろう?
この人が書いたことを、多分確実に読み取った思う瞬間が、それは妄想かもしれないけれど、どうしてこの世に存在するのだろう。
どうせ別の人間ならば、わかり合えるなどという幻想なんて生きていくのに邪魔なだけなのに。