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犬はどこだ (ミステリ・フロンティア)

犬はどこだ (ミステリ・フロンティア)

私は米澤穂信が嫌いであった。
ミステリとしてネタのみならず構造がちゃちいし、普通に小説としてキャラクターがうっとおしいし、物語として設定があざとすぎて…とにかく嫌いだったのだ。あれが青春ミステリだとか言ってる輩は、高校生が主人公で、なんたらうんたら悩んじゃったり考えちゃったりしてれば青春文学で、謎が解かれれば(実際には謎にもならないちゃちいものだが)ミステリなのだと思っているとしか思えない。

念のため言っておくと、私は日常の謎ものが「ミステリとしてちゃちい」と言っているわけではない。それどころか、日常の謎ものこそが、ミステリの真髄だと思っている。
ただ、良質な日常の謎ものでさえあれば、の話だ。

氷菓』も、『さよなら妖精』も、『春期限定いちごタルト事件』も、謎として書かれるものがあまりにも簡単すぎて、読者はそれが謎だと思えない。こんな単純なことを敢えて書かないのであれば、もしかして真相はもっと違ったものなのか、と勘ぐり、そしてがっかりせずにはいられない。
愚者のエンドロール』も『クドリャフカの順番』も、思想と恣意的な論理のいやらしさが滲み出ていて、落としどころが丸見えだ。

しかし。しかし、だ。

私は『犬はどこだ』を読んで、かつて『鬼女の都』を読んだときと同じ衝撃に打たれた。
侮り、どうせまたそうなんだろうと半ば消化するように読んでいた最後で、私は私が常に求めるミステリの形を鮮やかに突きつけられた。

この日記では本を褒めることはめったにないのだが、これは仕方がない。
これは、ミステリだ。
これが、ミステリだ。

米澤穂信は実は少年を書かない方がいいんじゃないのかな。得意じゃないからあんなにうまくなかったのでは。
それとも、少年の感情を少年のものとして書いてしまうと、あまりにも直裁すぎてそれらしすぎて、つまらないものになってしまうのであろうか。
それとも私がもう少年ではないから共感できないだけなのだろうか。

とにかく私は米澤穂信が嫌いだとそこやここやで言ってきたけれど、これからは訂正させていただきます。
私は米澤穂信は少年を書くのをやめればいいのにと思うよ。

ああ、これは加納朋子の時と逆だな。

日常の謎ものを書く作家たちは、常にミステリの謎の軽さと戦っている。
日常に転がる謎は軽く、えてして一つの物語を支えきれない。そこで彼らは心を、謎を支える心情を書き込むことにより、物語を支えようとする。
それはミステリではない小説の手法や感性を取り入れることかもしれない。
ミステリである部分と物語の部分がうまく噛み合えばいいのだが、書き手が下手くそだと両者はいかにも無理矢理くっつけたような不自然さを持って対立したり、互いに食い合ったりする。
加納朋子も、米澤穂信も、このバランスが非常に悪い作家だった。ミステリも物語も、どちらも貧弱で、噛み合っていなかった。
加納朋子はミステリより物語に傾くことで、より安定した重心を得て、『コッペリア』や『レイン・レインボウ』などの力強いミステリや小説を書けることを示した。
米澤穂信は物語よりミステリに傾くことで、より安定した重心を得て、『犬はどこだ』という強力なミステリを発してみせた。

日常の謎ものは、謎のささやかさに惑わされ、「簡単な」ミステリだという印象を与えがちだが、決してそうではない。日常の謎ものは書くことが非常に難しい、ミステリの極北の一つなのである。
て、これもしかして常識だったりするのか?