今日もまた

 生きているのだ。
 ゲームが苦手だ。うまく操作できないとかそういうのもあるが、操作の上手い下手なんて関係のないぽちぽち式のアドベンチャーやRPGでも、実際にやっていて楽しさよりはやらされている感、片付けている感が強くて、戦闘シーンとかホントに怖くてうんざりしてて、正直つらいと思いながらやっている。何でこんな思いまでしてやっているんだろうと思わないこともないが、そこに「物語」がある限り、消費せずにはいられない。
 一方で、そういう気持ちでやっているから、ゲームがつらいのだろうと思う。つまり、物語を消費したいというのに、無駄にダンジョンで道に迷ったり、お使いゲームをやらされたり、キーアイテム探してさまよったり、時間切れでやり直しさせられたり、ミニゲームに勝利しなければならなかったりするのは苦痛にしかならないということだ。
 しかしゲームを好きな人にとってみれば、例えばRPGでそういうお使いゲームやら戦闘やらは、実際にそこにそれだけの時間をかけて物語が進むことで、その世界に参加できているように感じられる、欠かすべからざる要素なのだろうなあと思う。
 私はなぜか、そういうふうなのが嫌なのだ。
 何でなんだろうなあ、と考えていたらふと思った。ゲームというのは、音や映像や操作や時間をかけることによって、その世界観を強烈にプレイヤーに定着させることができる。それが嫌なんじゃないかなあ、と。
 本を読んで穏やかにその世界に入っていくことに慣れているから、いきなりがつんと世界を投げ込まれると、つい勢いでその世界は自らのうちに深く存立してしまう。狭い脳内環境を、その世界が食らう。イメージも空想も構想も妄想も、作られた誰かの世界に幅寄せされて居場所がなくなってしまう。その世界にうっかり住みそうなる。
 要するに、妄想が行きすぎて、現実が食われそうになるのが恐ろしくて、あまりよその世界を取り込まないように警戒しつつ近づくため、嫌悪感が先に立つのではないかと。どんだけ妄想厨や。
 
 この前からLのゲームをやっているのだが、これはシステム上最低2周、性格上最低4周やらなければならないことになっており、それだけやっていると自然と攻略法を覚えて、最短で進めることができるようになる。そうすると物語だけを読めて、なかなかよい距離感となる。ゲームを楽しむ余裕が出てくる。
 というわけでなんだか楽しい気がして5周目に突入してみたのだが、さすがに飽きてきてへろへろしてる。
 一周終えてレシピ一個もとらずにおいたデータ(そのまま回れば真エンドに到達可能。かつレシピ集めも楽しめる)と、二周目エンド直前、分岐を自由に選べるデータ(そのままやればエンドだけをすべて見られる)を残して中古で売ったら、プレミアつかんかね?
…あ、だめだ、このゲーム自分の名前いれるようになってるから…。