そらにはそらの

冬は寒くて苦手だ。けどなぜこんなに感傷的な気持ちになったりするのだろう。空は夏に似ず硬くて春に似ず鋭く、秋に似ず遠くはない。
『心臓と左手』

心臓と左手  座間味くんの推理 (カッパ・ノベルス)

心臓と左手 座間味くんの推理 (カッパ・ノベルス)

『Rのつく月には気をつけよう』
Rのつく月には気をつけよう

Rのつく月には気をつけよう

思うに、石持が得意とするような、執拗なまでの論理の積み重ねによって構成される行動というのは、ひどく特殊な状況でなければ現出しえないものではないか。
犯人が組み上げた論理を、読み取る者がいる状況。
それは探偵を意味するのではない。読み「解く」探偵ではなく、犯人が論理を組み上げた理由となる存在のことをさしている。例えば犯人は論理を組み上げることによって誰かにメッセージを出していたり、そうすることによって張られる煙幕によって自らを疑惑の外に置くことを目的としていたりする。論理の外側を読み取る(ことを期待されている)存在に向けて、論理は築かれる。
そのような特殊な状況、事物に意味を与えようと読み取ろうとする者が存在するという奇跡(あるいはそう確信できる祝福されるべき誤解)によってのみ、論理は組み上げられるのではないか。
そういう状況は、例えば誰かが誰かに恋をしている時にもっとも楽に頻繁に現出すると考えられる。人は恋愛については情熱を傾け、必要以上に思考を費やしても自然だと考えられている。恋のためならば、入り組んだ論理も組むし、相手も恋していれば、その七面倒くさい論理も読んでもらえる。
だから後者は割と自然だが、前者は少々状況に難があるものがあるように思える。
いや、これは論理を主眼とするすべてのミステリに一般的に言えることではない。あくまで石持限定の特殊事情というべきだ。
つまり、石持が紡ぐ論理は「甘い」のだ。常に読まれること、解かれること、読み手がいること、見られていること、対象とされていること、自分が世界の中心であること、を求めている。形は違えど、「セカイ系」の論理と同じ温度を感じる。論理のための論理。ねえ、僕をみて。僕はここにいるよ。

例えば、古処誠司の紡ぐ論理は違う。生き延びるための、誰の注目も解読も期待していない、純粋に戦略のための論理だ。それが暴かれるのは、ただ読者に対してだけであって、それは我々が神の目をもって初めて人の秘した論理を俯瞰することができることを意味している。
例えば、有栖川有栖の紡ぐ論理は違う。どうしてもそうするしかなかった、誰に解かれることも知られることも求めていない、人として踏みとどまるための限界の論理だ。それが暴かれるのは、人である探偵が人を人として撃ち落とそうと、人間の能力の限界まで出し切って、犯人が紡いだ「人であるため」の論理に迫るためだ。

石持の論理は、ツールやゲームとしての論理でしかない。だからどの事件でも犯人の心情は書かれない。推測されるにとどまる。思うに、それは書くべき中身が存在しないからではないか。作者の中で犯人は、ただ論理のための論理を紡ぐものであり、執拗なまでの論理の積み重ねが可能になる、ひどく特殊な状況を構成するための一つのパーツにすぎない。その中身に、論理以上のものがあるとは、作者自身考えたこともないのではないか。

あ、なんだ俺自分で書いてて悲しくなってきたぞ。けっして石持をけなしたいわけじゃなくて、論理系の作家にはがんばって欲しいのだが。だが…。