だってそういうものだもの

今日新聞で、「ブルドック対抗策」という見出しを見かけ、「ブルドック」という新たな経済用語があるのだと二紙分を読む間くらいずっと信じ込んでいた。「ホワイトナイト」とか「ポイズン・ピル」みたいに。

最近、一人の講師を囲んで「なぜ本を読むのか」を語る機会に遭遇した。そこにいたのは、少なくともミステリを書きたいと思っているはずの人々であった。
だから私はこんなにも絶望するのである。
かれら8人のうち7人までが、本を読むことは現実逃避であると言って終わった。そして多くが「そんなこと考えたこともない」と言った。(残りの一人は、本を読むのを禁じられていたから、反発心から、と言った。誰もそんな歴史なんか聞いていないのだが、話をひとりひとり順繰りにしていく内に、自分の読書歴を話し出す輩が増え、とうとうそこまで到達したのだった。どうして質問を覚えていられないのだろう?)
私は信じられなかった。なぜそこで思考停止する?
現実逃避、は決して解答になり得ないだろう。現実から逃避する。どこへ? 本の中へ? では何故本なのだ?(一番徹底した逃避は、死ぬことだ。一番簡単な逃避は、寝ることだ。おそらく他の人間とスポーツやおしゃべりをするほうが、身体という決定的な要素を関係させるためにより一層刺激的で効果的な逃避になるだろう。物語を消費するならテレビドラマでも映画でもいい。紙が好きなら漫画でもいい。なぜ、本なのだ?) 何故本を読むことが逃避になる?(本を読むということは、何をもたらすのか? そのもたらされる何について、逃避先を見いだすのか? 例えば本を読んで感じる感情なのか、主人公に感情移入してはらはらどきどきする感覚なのか、展開される思想を理解することなのか。読むという行為はいろんな側面を持っているというのに、一言で何を言い表した気になっているのか?) 本の中の世界に没頭している時間が逃避であるのなら、読み終わってしまえばその瞬間興味も情熱も終わるのか? 現実世界との折り合いは? 両者に全く関連がなく、ただ真に逃避しているだけならば、現実に戻ってくるのは苦痛なのか? 本を読んで逃避している時間だけが楽しいのか? では何のために生きている? 逃避するためだけに生きているのか? それで疑問を感じないのか? 人間が生きていることに意味などないと言うのに?
思考というものは、どんどん進んでいくものだ。逃避、という答えを真剣に考えれば、当然命題はここまでいきつくはずだ。そうなったら、恥ずかしくてとても「本を読むのは現実逃避です」なんて言えない。
なんで、そこまで、考えないのか。なぜ、一言で思考停止するのか。
私にはまったくもって理解しがたい。

 もちろん本を読むことには現実逃避の側面がある。逃避というか、違う現実へのトリップだと私は思うが、それを逃避と呼ぶひともいるだろう。そういう意味では、逃避という言葉を否定するものではない。
 しかし私が思うに、本質的には世界の理解、である。本を読むということは、違う世界を理解すること。逃避という言葉がもつ、嫌なものがあって、それから逃れるために情けないことをする、といったイメージとは違う。足場は動かない。こ揺るぎもしないで、ただ前に存在する世界をひょいと交換する。交換して、目の前のそれを理解する。いつでも元の現実と交換する。同じように理解する。
 世界を理解したい、という本能(世界を理解すること、は、生存を有利にする。生物はそうやって淘汰されてきて、世界を理解する能力に優れたもの・世界を理解したいという本能を持ったものが今生き残っている)のために、私は本を読む。現実を理解するだけではとても足りない。自分の身の回りにあって、理解するのに必要な最低限の情報を得られる世界はそう代わり映えしない。そうそう新たな理解を必要とすることはない。だから私は理解すべき新しい世界を求めて本を読む。常にその本能を活性化させ、だから現実の世界も理解する。現実と本は、理解すべき世界という点で同じであり、なんら乖離するものでもなく、どちらかが楽園というものでも、地獄というものでもない。

 そもそも、本を好きでたくさん本を読んでいる、つまり人生のかなりの時間を読書という行為に費やしている人間が、その理由をまったく考えなかったり、「現実逃避」ですませられるなんて信じられない。自分の中で意味もわからないもんに、よくそれだけ人生を浪費できるな? ただなんとなくここちよいからやるならば、自慰行為を教えてもらって延々とそれを続ける猿といったい何が違うのか?
 ましてや、本を書こうという人間が? 自分が作ろうとしているものが何のために・どういう意味をもって・どうやって消費されるか明確に認識もできなくて、何が書けるのか? 自分の中に書きたい何が存在するというのか?

おそらく、本を読む動機の本当の本当は、誰しも私と同じで世界を理解するという本能に奉仕するためなのではないかと思う。ただそれを認識していないだけで。もしそうなら、何故認識しようとしないのか?

 何故自分がこんなに怒りを覚えているのか、わからない。
 今からそれを考えるので、とりあえず今日はおしまいです。