いきしに

十三番目の陪審員

十三番目の陪審員

この前薦められたので読んでみる。
芦辺拓は割とよい評判を聞くのだが、なぜか手が伸びないでいた。グランギニョールとか結構面白かったのだが、なぜだろうと思っていた。
あー、あれだ。二階堂に文体が近い。一人称でないだけましだが、酔いがちの文章がくどくて重くてうっとうしい。
そして、うざい。必要以上に作者の主張が全面に押し出されていて疲れる。なんつーのか、社会派っぽいイメージ(これはミステリ界における松本清張とかを示す意味ではなく、一般社会的な意味)を気取っているのか(失礼)、大上段に振りかぶった刀がやけに大仰でうっとうしいのだ。
しかも、それは真剣に取材して社会的闇をつく、とかではなくて、彼の日々考えていることをつらつらと書いているだけなので、非常にうんざりする。
つまり、「社会を牛耳っている悪いやつら」と「それに対抗するまっとうな市民の主人公達」という構図で、延々と「悪を討つ!」みたいな調子で述べ立てられるのだ。
政治家とか、官僚とか、記者とか、刑事とか、裏稼業のおじさんとか、主人公達の敵にあたる人々がことごとくべたべたの「書き割り」で、ほんとうに、「仮想敵」でしかないという書きっぷり。
ミステリとしての核は悪くないのだが。書き手が熱く語れば語るほど、えてして読者は醒めるですよ。何か怒って書いてるらしいなーと思えても、それは面白さに繋がらないし、主張を理解しようと読者に思わせない。

ミステリというのは、推理。比喩的に言えば、ミステリは思考の実験場・鍛錬所であると私は思っている。
だから、ただ主張を(客観的事実に基づく根拠もなく)押しつけるものではないと感じている。それはノンフィクションとか論説でやればいいことだ。主張をただ読ませて理解させる、というのは、思考とはほど遠いことである。本当は丸飲みしてもらいたいわけで、考えて貰っては困るのだから。(だって考えて解釈しようとしたら「いや俺の言いたいことはそうじゃなくってね」と言い出す輩が大半でしょう。)
 ミステリで自分の主張を書きたいのなら、やり方が違う。ミステリは思考のものだから、読者に考えさせなければならない。陪審員制度が導入されないのはエリート共が市民を馬鹿にして、自分たちだけでなれ合いの腐った社会を運営していこうとしているからだと主張したいなら、「陪審員制度が導入されないのはエリート共が市民を馬鹿にして、自分たちだけでなれ合いの腐った社会を運営していこうとしているからだ」と書いてはいけない。「エリートが市民を馬鹿にしていること」「彼らのなれ合いっぷり」「その社会のおかしさ」を描いて、読者に「陪審員制度が導入されないのはエリート共が市民を馬鹿にして、自分たちだけでなれ合いの腐った社会を運営していこうとしているからだ」と結論づけさせなければならない。それができる筆力があって初めて、ミステリの中で主張を展開することが許されるし、主張するのにミステリという舞台を使うことに意味が出てくる。

ようするに、書きすぎなんですよ。何もかもが。
この言辞そのものもな。