疾風怒濤

最近、疲れて電車で立ったまま寝るようになり、碌に本が読めなかったので休みになった途端続けて読む。
とは言ってもたいしたものを読んでいるわけではない。気になってるけど地雷っぽそうなのをぷちぷち踏んでおく。仕事が忙しいときに地雷を踏むと精神衛生上よろしくないからだ。
例えば

僕僕先生

僕僕先生

これは新聞の広告で読んだのだったが…
とにかく文章が小汚くて読んでいてものすごくいらいらした。これを持っていたときちょうど電車が事故かなんかで止まっていたのだが、あまりに苛立たしいため読み進めることができなかった。これを読むと余計にイライラしそうだったのだ。
わざと難しい言葉や雅な言葉、美しい言葉や独特な言葉を使って文章の格調だか風情だかを上げようとしているのが見え見えなのだ。そしてそれが微妙に間違っている。
一例をあげると…「春先の庭にはうわうわとたゆたった空気が流れ、その中に立つ青年もまた風景に溶けて同化してしまっているようだ。」…あのさあ、「たゆたう」は「ゆらゆらと揺れ動き、漂う」状況や様子を表す動詞なんだけど。状況や様子を表す動詞は、その形では現在完了の意味は持てなくて、過去の意味しか持てないんだけど、その辺日本人として理解できてないわけ? それともたゆたったその後の空気が流れる、とかいうくどくどしい状況を想像しなきゃいけないわけ?
内容はまあほぼどうでもよい感じで和むのだが、いかんせん文章が…。
アコギなのかリッパなのか

アコギなのかリッパなのか

これはもういらないっす。世の中に必要がないっす。
つーか、なんで私はこの作家を追ってるんだろう? これっぱかしも好きと思える要素がない。もう読むのはやめよう。加納朋子とか米澤穂信みたいに化けるのもあるけどな…こいつはもうこれから抜けようと思ってないと思う。
この人の文章は、過剰。登場人物の気持ちとか、話のオチとか、読者が想像して補完して楽しむべきところまで、書き込んで、自分の答えを押しつける。最近の若旦那もの
うそうそ しゃばけシリーズ 5

うそうそ しゃばけシリーズ 5

でも、若旦那が山の神に願いを口にするところなんか悶死しそうになった。てめ、そんな言葉を口にすんじゃねえ、それは、純真無垢で馬鹿な子供でさえ、心に秘めて口には出さないプライドを所持している類の言葉だ。…もはやこんな言葉を(作者の考えを読者に理解させるためという目的で)口にさせられる若旦那に同情してしまう。
凍りのくじら (講談社ノベルス)

凍りのくじら (講談社ノベルス)

私は絶対嫌いだと思っていたのだが、そうでもなかった。仕掛けてあるトリックは見え見えで、伏線も張った瞬間それとわかるのだが。それはそれとして、ミステリでない部分に結構やられた。ミステリがあまりにもちゃちなので、ミステリとして読むことを止め、小説として読んでいたことが幸いしたと思われる。
でもこれを三分冊とかでやられたら読む気なくなるなあ…長すぎだよ。これから読んでよかった。でも自分のことを「少し浮遊」とか言われるとめっちゃ引くからやめてんか。