仕事してるぜ!

でもとろいぜ。

陽気なギャングの日常と襲撃 (ノン・ノベル)

陽気なギャングの日常と襲撃 (ノン・ノベル)

読んだぜ。

 すべての伏線が読みながらにしてわかっても、別にいいなと思って読み進めるのはなんなのだ。
 私はミステリについてぐたぐたと考えていて、それによるとミステリとは「(分断された物語の断片を集め、再構成して)世界を洞察するもの」であるということになっている。なっているというか私はそう考えている。ま、詳しくは今はおいとこう。「読者、あるいは登場人物達にとっては隠蔽された物語が存在し、その断片だけが読者/登場人物に提示される。その断片から隠蔽された物語を再構成する様子を書いた小説」程度に考えている、と思ってもらえればいい。
 ここでいう「断片」というのは多くは伏線のことであるのだけれども、この小説に関する限り伏線は全部拾われている。それが有効に活用されて物語が紡がれている。
 しかしそこには謎がない。物語は時系列的・視点的には分断されているが、本質的には現在進行形であって、構成的に分断されたものではない。
 だからこれはミステリじゃないと思う。
 ではこれはいったい何だろうね。

 あ、もちろん「なんで彼は自分が大変な時にそんなメモを?」とか「なんで彼女は嘘をついてまでそんなことをしたかったのか?」とか「謎のチケットを贈ったのは誰でなんのためか?」とかが読んですぐにわからなければそれは謎になるので、世間一般でこれがミステリと呼ばれることにはやぶさかでない。
 問題は「私」に、それらについて伏線を読んだ瞬間わかってしまった「私」にとって、これは何なのかということ。
 あー、シチュエーションコメディ? よくわからんな。


 話はそれるが、世に言う「ミステリの定義は人それぞれ」という言い習わしは、怠慢だと思う。
 いや待って下さい、最後まで話を聞いてください。
 私が言いたいのは、定義の中身がどうだこうだと言う前に、定義という言葉の意味はどうなっているか、ということ。

 ミステリとは何か?
 たしかに、ミステリは化学変化や論理式ではない、人間が意識的に作ったものであるから、すっきりと整理できない面があるだろう。個々人が感じることが違うこともまた当然だ。みんなが納得する区切り方はできないかもしれない。
 しかし、だからといってミステリという言葉について定義というものが存在しなくていい、ということにはならないと思う。だってそういう言葉が存在しているのだから。
 つまり、「自分の考えるミステリと呼べるものの条件・定義」と、「ミステリの定義」は違うものであろう、と言いたいのだ。言い習わしを言う人は、両者をごっちゃにしているのではないか、と思う。
 両者は価値観による判断と客観的分類の違いだ。価値観による判断は、N階堂氏などがつばを飛ばして言っている、「私はこれこれこういうものがミステリだと考える」というもの。普通「あなたのミステリの定義を聞かせてください」と使われるのはこちらの意味でだと思う。客観的分類はそうではなく、ミステリという言葉の定義そのもの。ミステリという言葉がただ指すもの。ミステリの日本語としての意味。
 私は後者の客観的分類の基準としての定義は、放棄されるべきものではないと考える。言葉である以上当然のことだ。だって言葉は共通理解のもとでしか成立しない。
 例えば、「餃子」について定義せよ、と言われたら、「小麦粉で作った薄い円形の皮で、野菜・肉などの具を包み、茹でる・焼くなどして熱を通した料理」というのが定義、だろう。それに対して、「小麦粉で作った円形の皮で豚肉・ネギ・椎茸を細かく切ったものをひだを綺麗に寄せて包んで、焼いたもの」と言ってしまうと、これは「自分の考える餃子というもの」についての記述になってしまう。人によって「エビが入っていなければ餃子じゃない」とか、デザート風の餃子に対して「あんこが入ったものは餃子じゃない」とか言う議論も勃発するだろう。しかし、餃子の定義は人それぞれ、ということになってはいない。
 当然のことだ。それが言葉である以上、それに対して意味が定義されなければならない。最低限の共通理解としての定義がなければ、言葉は存在することができない。餃子を注文したのに、アップルパイを出されて「餃子の定義は人それぞれだからなあ」と納得しなければならないとしたら、それがすべてにおいて同じことだとしたら、人は言葉を使った社会生活というものを実現できない。
 「人それぞれ」という言葉は前者の「自分の考える〜」に対して発されるものであって、後者の「共通理解としての定義」に発されるべきものではない。しかしこの言葉を使う人はあえてだかなんだか知らないが、前者後者をごっちゃにして投げつけているように思う。あるいは、定義という言葉がその人の中で、定義=「自分の考えるもの」と「定義」されてしまっているのだろう。
 もう一度言う。両者は違う。
 そして言葉として存在する以上、言葉の意味として定義は必要。当然のことながら。と、私は主張する。
 その上で、個々人が「俺の考えるミステリとは」とかについて考えるのはもちろん自由で人それぞれだろう。私は帯に「これぞ本格」とか書かれても、もちろんその上で、のことであると思っている。その煽り文句の意味するところは「編集者の考える本格」なのだ、と。これは嫌味です。

 閑話休題
 あ、戻るべき話がなかったやね。