人生の選択

 歩こうか走ろうか。どの車両に乗ろうか。行こうか帰ろうか。いきなりだごの行列に並ぼうかやめようか。
 「どこに就職するか」とかよりも、そういうささいなことで人生の選択というものを意識する。

http://www.excite.co.jp/News/bit/00091126058280.html
を見て、すごく見たかった虹色ラムネ。でも通販だと24本も来るんだよ。とても買えないよ。と思っていたら、近所のイオンの九州物産展に出店していた。すごく嬉しくなって買ったのだが、どうやらそのラムネは「スタンプラリー」の景品(ちゃんと見なかったが、多分物産展でいくらか以上買い物をするとスタンプを押してもらえて、スタンプ一つにつきラムネ一本もらえるよう)になっていたらしく、財布を出して「くださいな」と言ったらやや妙な顔をされた。
 よいのだ。私はものすごく嬉しかったので。その嬉しさが誰にわからなくてもよいのだ。

背の眼

背の眼

 これは『君の名残を』と同じくらいの厚さで段組もわりと似ているのだが、ものすごい速さで読めた。どこを飛ばしていいかとか、この文章で結局何が言いたいのかがぱっとわかって、さくさくいけた。思うに、浅倉卓弥の文章は、のっぺりとしていてとらえどころがないのではないか。じっくりぐちぐちと読んでそれが面白いのならよい文体なんだろう。というのは
雪の夜話

雪の夜話

はそんなにいらいらせずに読めたのだ。というかこれは好きと言ってもいいかもしれない。何をそんなに警戒しているのか自分でもよくわからないのだが。
とにかく前者の話だ。

 ホラーサスペンス大賞の特別賞受賞作。だからミステリじゃないんだけど、どう読んでも作りとしてはミステリ。それでいてこれは確かにミステリではない。なぜなら、謎がすべて回収されないから。
 しかし、ミステリではないながらもミステリ的展開と解決をする物語で、しかもそれ以外の読みようがない(ホラーの怖さもないし、その他人間的物語もないのでね。あ、サスペンスももちろんない)ため、ミステリ的に読まざるを得ず、納得がいかない。
 いくらこれはミステリじゃないと明言されていても、途中でかなりいい線の推理が入って、メインで提示された謎の落としどころが見えていて(メインの解決はとても簡単。推理のレベルですらない)、まだ謎として残っているものがあったら、もしかしてこっちのこれこそが真の解決されるべき謎か? とか思っちゃうんだよ人間は。
 そこでやっぱり「えへへー、これホラー」と言われると、怒りを覚えそうになり、でもはじめからミステリじゃないことは宣言されているので怒るのは筋違いということを思い出して、感情が持て余される。非常にもやもやとする。もやっとボールを怒られるまでイチロー選手の背中に叩き込み続けたい気持ちになる。

 これが京極の薄めたのだと言われていると小耳に挟んだが、そんな風には感じなかった。言われて、ああ設定は似ているかもと思ったがその程度。圧倒的な蘊蓄がない。薄くて軽くて生暖かく、全体的にもやっとする。京極のデビュー作は、確かにあれもミステリではなかったが、「これはミステリじゃねえ!」と叫ばせてくれるだけの力を持っていて、ミステリではない読み方を許すものだった。

 あ、今、滑稽だ。「ミステリじゃないんだから謎が全部解決されてない!と怒ってはいけないんだ」とかすんごい頭が固くなっている。枠に囚われてばたばたもがいていて滑稽だ。それが自分が勝手に作り出した檻だと気付いていない。ということに気付いてしまった。

 そりゃこれはミステリじゃないと自分で言ってるかもね。じゃあだったらいったいなんなのさ? ホラー? ぜんぜんまるっきりまったくちっとも怖くない。背の眼を想像したら怖いかもしれないけど、それは私がもとから持っている眼という部品に対する怖れによるものであって、決して作者の技量によるものではない。サスペンス? あの冗長な物語のどこに緊迫感が? 人間の物語? は? 過去の綾辻達に向けられた言葉の埃を払って丁寧に包み直して進呈するよ。
 ミステリじゃないとしたら読むに耐えないものなんだ、これは!
 瑕疵のあるミステリ、ということにしたら私は評価の言葉を持つ。だって謎が回収されきってないけどミステリだとか言ってる作品はいっぱいあるし。だけどあくまでミステリじゃないとするなら、捨てる。こいつは読むに値しない。ということなんだな。あーあ、滑稽だ。