銀色の髪の顎

何かの映画を見ていて予告編ででてきてその音楽にしびれ、見よう見ようと思っていたのに見ていなかったので見た。ら、
ラピュタだった。
びっくりして検索をかけたら、ものすごい評判だった。ああ、検索してから見に行くかどうか考えればよかった。

冒頭のシーンとか綺麗で、プロローグみたいな「中立都市の日常」っぽいシーンはジブリクオリティに達したか…と思わせたものの、何にせよストーリーがまんまラピュタ未来少年コナンだった。念のために言っておくが私がコナンを見ていたのは衛星放送でやっていた再放送にてである。地上波放送の時にリアルタイムで見ていた年齢ではないのであしからず。

私は映画を見た時はいつもその映画のパンフレットを記念の意味で買うことにしているのだが、今回はさすがに買えなかった。

第八の日 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-6)

第八の日 (ハヤカワ・ミステリ文庫 2-6)

ともあれ読む。

 これはあれだね、エラリイの「物語」だ。ミステリにしては推理があまりにも足りない。犯人も謎の理由も、読者には殺人がおき謎が生じた段階で(というか登場人物の設定を知った段階で)わかってしまう。だからこの作品でミステリが果たす役割は、前提にすぎない。「エラリイが謎を解く」という設定を、エラリイにとっては運命を、生じさせる単なる装置であるにすぎない。
 読み終えた直後、一番近いと感じたのは「二次創作」だ。腐女子的妄想とかそういうのじゃなくて、その作品が好きで好きで、その作品の世界にどっぷりと浸かった人が、その作品世界を展開させて書いたもの。その作品がもたらす世界を愛し、今あるものだけでは足りなくなって、楽しみというよりはどうしようもない飢えと渇きから、生み出さざるをえなかったもの。
 しかし私はこれを愛する。
 これは書かざるを得なかったものだ。多分。エラリイという人間が推理するということを、世界を洞察する人間のことを、この段階にきてクイーンは結晶化させて書かなければならなかったのだろう。
 だから私はこれを愛する。
 なぜなら、これがミステリである必要性を持っているからだ。詳しくは私のサイトのコラムのようなものを読んでもらえればわかると思うが、私はミステリはミステリである必要性をもって書かれなければならないと思っている。
 これはミステリという装置を使って書かなければならなかった物語だ。